自分さがし

2016-04-17

『自分たちよ!』   伊丹十三 著   文春文庫

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

前回の書評ブログで、日本語に表れた日本人らしさ、ということを意識したら、やはりこの本が思い出されて、これまた久しぶりに読んでみました。そしてやっぱり、著者の語る言葉に感銘を受けたんです。

 

本書は、ブログタイトルどおり「自分探し」の本。そして今日は、掟破りともいえる「本文引用」をやります。刊行から30年近く経つこの本の、しかし全く古びない「人間について」の文章、私には輝いてすら見えるその言葉を、皆さんにも味わっていただきたいからです。では。

 

・みんな、これまでに一度くらいは自分は一体何ものなんだろうかと考えたことがあると思います。人間というのは言葉でできていますから、自分自身を言葉にしてみると、とてもスッキリするのです。そこで人生相談、インタビュー、読書案内、映画論、漫画などなど多角的な視点から自分自身に出会うためのヒントを考えてみました。〈裏表紙より〉

 

・まあ腹が立つってことは、結局その人が自分で自分をどう思ってるか、つまり「自我のセルフ・イメージ」ですね、これが傷つけられるから不安になるわけです。つまり人間というものは自我の安定をおびやかされると腹が立つわけですよ。〈「自分探し」より岸田秀の発言〉

 

・すべての人間は母親と引き裂かれた存在であるト。そして、人間の空想というものは、母親と自分が引き裂かれる前の完全な充足の世界を目指す、ということですよね。〈「サガワ君の場合」より伊丹の発言〉

 

・愛というのは「相互的な」関係です。自分は現状にあぐらをかいて、相手だけを自分に都合よく変えてみようというやり方こそ愛から最も遠いところにあると知るべきです。〈「自分探し」より〉

 

・正常というのは要するに大多数の人が信じているから正常なのであって、それ以外に、これが正常だ、と決めるような確固たる基準は何もない。つまり、正常というものは、いわば人間がよってたかって、やっとのことで支えている巨大な泥の山のようなものでしょう。手を放せばたちまち流れ出して消滅してしまう。そして、そのように不安定で壊れやすい作り物であるからこそ、人人は必死になって壊すまいと、この泥の山にしがみつくのです。〈同〉

 

・女の悲劇は、人生の相棒として「人間」に出会おうとして「男」に出会ってしまうことでしょう。男というのは人間をやめているから男なのです。町を歩いている男たちをごらんなさい。彼らは喧嘩をするために歩いている。人生は勝負だ、と思って歩いている。彼らは「男は男らしく」という催眠術に操られるロボットです。彼らは人生を勝ち負けで見るため、彼らの心に映じる人生はすっかり歪んでしまっているのですが、本人はそのことに気づいておりません。〈同〉

 

・あなたの中にあなたの幼児がいて、その幼児が自分のチカラで歩き出すように祈るのだと考えて下さい。幼児が立ち上がった時、あなたは初めて自分が自分であることの充実感を悟るでしょう。あなたは自分が自分になってゆき始めるのを感じ、その時初めて人人が、彼らもまた自分になりつつある人人として姿を現わすでしょう。その時、あなたの心はおのずと他の人に向かって開かれるはずです。人間においては自分との関係はそのまま他者との関係に反映します。自分に出会わぬ人は他者と出会うわけもないのです。〈同〉

 

・生きる目的を決めてから生き始めることはできないでしょう?生きる目的を見つけること自体が生きることなんでしょう?自分を見つけてから人生をスタートさせるわけにもゆかないでしょう?生きながら自分になってゆくのが人生なんじゃありませんか?〈同〉

 

いかがでしょうか。なんとも深みのある言葉ばかり、私はそう想います。やはり、伊丹十三が私の「自分探し」に大きく関わっていたことを、久しぶりの本書との対面で思い知った私です。

 

なお、本書は非常に活字が小さく、はや老眼となりつつある私にはちと厳しい読書でした。そこにも過ぎた歳月を感じたこと、告白しておきます。


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