究めて純なり

2016-05-07

『魯山人味道(ろさんじんみどう)』   北大路魯山人 著  平野雅章 編   中公文庫

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。本書裏表紙の紹介文は、以下の通り。

 

「書をよくし、画を描き、印を彫り、美味を探り、古美術を愛し、後半生やきものに寧日なかった多芸多才の芸術家 ――― 魯山人が、終生変らず追い求めたのは美食であった。折りに触れ、筆を執り、語り遺した唯一の味道の本。」

 

偉大な芸術家にして美食家と言われる、北大路魯山人。わたしも器を通じて知ってはいますが、その「食」そのものについての考え方などは全く知りません。それが本人の筆で読めるとあって、早速入手した一冊です。

 

大正10年に会員制の「美食倶楽部」を設立、高級料亭・星岡茶寮を赤坂につくり、自ら顧問兼料理長として、食材から調理まで徹底的にこだわりぬき、さらに盛りつける器まで自作にて極めた人。そういう知識で、一体どんなことが書かれているのかと、恐る恐る読み始めました。

 

読み始めは、意外な印象。そして読み進むにつれ、魯山人が目指したであろうものが、段々と伝わってきます。それは確かに美食を究めることですが、同時にそれは、生物とその扱いを究めること、だと感じました。

 

「序にかえて」から少し引用しましょう。

「料理の考え方ひとつで、仕方ひとつで、物を生かして美味しくいただける工夫、すなわち経済で美味・・・それです。心なしの業で物を殺してしまっていることが往々にありますが、それをもったいないと言うのです。」

 

本書には、数多くの食材や料理の数々は、まさにそうした考え方に則って描かれています。それは本当にシンプル、素材そのものを最大限に美味しくいただくこと、簡単な料理を最大限に美味しくつくること。

 

数の子、筍、鮑、鮎、鯛、鮪、鰻など、など。それぞれの命を本当に美味しくいただく。素材の吟味も、丁寧な調理も、それを引き立てる器も、そのためにおこなわれるのだ。そう言われているようです。単純を究めるのだ、と。

 

私が面白かったのは、「お茶漬けの味」と称した章。ここには九つものお茶漬けが紹介されているのですが、納豆の茶漬け、車海老の茶漬けなど、今もあまり食べられていない方法が載っている。これも、「お茶漬け」という単純な方法をより高めるために、自身が実践し探求した結果なのでしょうね。

 

前半はこうした食べものの話で、そこから徐々に器の話や「食」そのもの、そして「美」についての話に移っていきます。段々と、魯山人が言いたいことの本質に迫ってくる。これは編者である魯山人の弟子、平野氏の構成の妙でしょう。

 

器については、こんなことを言っています。氏が陶芸にのめり込んだ理由ですね。

「『俺の料理はこういう食器に盛りたい、こんな食器ではせっかくの俺の料理が死んでしまう』と、昔の茶料理のようになってこそ、初めて、よい食器が注意され、おのずとよい食器が生まれて来る。食器をつくる人が、それに応じて高い美意識から立派な食器をつくらねばならぬようになる。」

 

そして、「ものをつくる」ということの真髄に迫ると感じられた、次の一文。

「書でも絵でも陶器でも料理でも、結局そこに出現するものは、作者のすがたであり、善かれ悪しかれ、自分というものが出るのであります。一度このことに思い至ると、例えばどんなことでも、他人任せということはできなくなります。全くほんとうのことが判って来ると、恐ろしくて与太はできないのであります。」

 

ちょっと今日は引用が多かったですが、その簡潔な文章に深い思想が込められている、そう感じた次第です。すべてに怠りなく「単純」を究め、そして「真純」に至った人の言葉には、やはり重みがある。ものづくりに関わる方には、特におすすめしたい一冊です。


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