不如意のせかい

2016-05-16

〈農育、ムッレ、北欧、人間教育。オーディションの場で頭を巡った言葉たちです。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。今日はちょっと支離滅裂な長い話になる予感がします。私の言いたいことが、伝わりますように。

 

昨日の日曜日、午後からある会に参加してきたんです。「『一億総満足社会』政策オーディション」というもので、市議会や県議会の議員さん方に向けて、一般市民である女性参加者が政策案をプレゼンテーションするという主旨の集まりでした。

 

KJWORKS阪神の「木の空間」を通じてお知り合いになったプレシャスアカデミーの永里真由美さん、ママントレの須澤美佳さんが実行委員をしておられることもあり、またプレゼンテーションをされた方にも同じくお知り合いがおられたので、その提言を拝聴しに。

 

プレゼンターのお知り合いは、津村妃依里さんと、中川由紀子さん。そのお二人の提言内容と、私が関わっていたいと想うこととが、なにか一脈通じている感覚をもちましたので、そのことを書きます。

 

津村さんの提言は「一人一畑一田んぼ」というタイトルで、これは最近よく聞くようになった、いわゆる「農育」についてのお話でした。農業を体験することを通した人間教育、ということですね。

 

そして、中川さんの提言は、フィンランドの「ネウボラ(neuvo-la:アドバイスの場)」という、妊娠期から子どもの就学前までを通した国による支援制度のお話でした。各家庭の育児を一貫して見守る公的体制について、ですね。

 

北欧の国にある優れた制度の導入、そして日本の「農」の現状をふまえた新しい交流のかたち。視点は違うようですが、私の中でそれらはやはり底のほうでどこかつながっている、そう感じました。

 

お二人の話を聞きながら私の頭のなかに浮かんでいたのは、スウェーデンの自然教育「ムッレ」のことです。ここ兵庫県でこれを提唱しているMadorinaの石丸真理子先生と、昨年末にお会いし、ムッレの理念と木の家とのつながりについて、大いに話が盛り上がったのでした。

 

やはり北欧の国々は「生活大国」と言われるだけあって、子どもを産み育てていく環境というものを、非常に大切にしている、という気がします。ネウボラも、自然教育も、「親子の安らぎが人をつくる」というその点では同じ。次世代への注力こそが人材を肥やし、国を豊かにするという思想があるのだと思うんです。

 

ネウボラについてはまた稿を改めてじっくり書いてみたいと思いますが、ここで冒頭の写真をご覧ください。水田のすぐそばに、いわゆる「里山」があり、そしてそこから森へとつながる気持ちのいい景色ですね。皆さん驚かれるかもしれませんが、これは神戸市内の風景。神戸市さんの「里地里山」のサイトから拝借しています。

 

津村さんの提言にもあった通り、神戸市は広く、南の都市部と北の農村部とを共にもっています。そこでの「農育」という体感教育をプレゼンテーションされたわけですが、石丸先生からムッレのことをお聞きしている私には、それは本質的にはムッレと同じことだと感じられました。

 

日本とは違った、割に平坦な地形での林業環境をもつ北欧諸国では、森に親しむ、というムッレのような教育が生まれやすい。それと比較して、森とはイコール山であるような日本では、森は往々にして神の領域であり、そこと田畑との間に、森の周縁である「里山」が出来たのだと思います。

 

ですから、日本における田畑での農育とは、林業国での「林育(こういう言葉があるかどうか知りませんが)」とは意義において同じなのでしょう。要は、「私たちに恵みをもたらしてくれる自然環境から、生きることを学びましょう」ということ。

 

そして、これは農育であっても林育であっても同じですが、自然環境から何かを学ぶということ、その本質は「『思い通りにならない』を学ぶ」ではないかと私には思えます。そしてそれこそが、今の子どもたちに足らないことだと、ママさん達も感じている。

 

自然界では何が起こるか予想できず、人間の意のままには全くなりません。それは小さな自然とも言える田畑でも同じ、森のなかなら、さらにそうでしょう。すべては自然現象という神の意思をもって「不如意(ふにょい)」の世界として人の前に立ちはだかる。

 

そして農育で子どもたちが知るべきこととは、その意のままにならない自然や天候を相手に作物をつくり、生きている人がたくさんいらっしゃること。土に触れるとか、バッタと遊ぶとか、そういうこと以上にその「人が自然と格闘しながら生きる」ということではないかと思うんです。

 

日本にはそうした意味での中間領域「里山」があります。農育とムッレも、里山を間に挟んで、すぐ近くにある。その意味では、日本では「穏やかな自然」も「厳しい自然」も、逆に身近に知り得る環境にあるのでは、とも思ったりします。

 

すいません、やはり支離滅裂になってきました。津村さんの提言にも「『生きる力』のある子供たちを育成する」とありましたが、それはこうした「不如意の世界」から子供たちの前に脅威として立ち現れるものからしか、学ぶことは出来ない。そう思います。

 

暮らしの豊かさを感じられるという北欧の国々には、そうした「人が生き物として自然に生きる」ことが普通に社会通念としてあるのではないでしょうか。そして、日本では一度忘れられたかに見えたそれが、今また人間の欲求として生まれ来ているのではないでしょうか。

 

うまく説明できませんが、人間らしい、とはそういうことなんだろう。木の家をつくりながら私が感じていることとも、それは齟齬なくフィットするのです。


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