書籍のものづくり

2016-09-01

〈あまりにも便利な書籍購入から、業界そのもののあり方を少し考えました。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。今日はものづくりのあり方について、ふと頭に浮かんだことことを。

 

私は本が好きですが、でも最近いつ書店へ行ったかと聞かれれば、もうちょっと思い出せないくらい前のこと。それは、ほぼ全ての本をAmazonで「ポチッと」して購入しているからですね。

 

WEBの最大の特徴である「検索」という機能をつかった本探しはとても便利。情報を関連付けて、たやすく自分の探すジャンルの本にたどり着くことが出来ます。新刊も、そして古本も既に同じデジタルの世界で流通している。

 

でも、ほんの20年前には、そうではありませんでした。私もしょっちゅう書店、そして古本屋に出入りしていました。梅田にある古本屋街など、よく行っていましたね。よく行くところは、もう店員さんと顔見知りになっていたりして(笑)。

 

実は今日、Amazonである電子書籍を買いました。ポチッとして、もう三分後にはその本をKindleアプリで読める。おお、昔とえらい違いやな、と独り言が出た時、ふと思ったんです。「これって、どっちがええんやろか?」と。

 

さて、ここで今日の冒頭の写真は、7月初頭に行った「江戸東京博物館」にあった「さうし(草紙)問屋」の実物大の再現展示です。ここは江戸でも有数の版元「泉屋市兵衛」のお店。今の港区芝大門にあったそうです。

 

絵草紙という当時の大衆向けの書籍、そして店の中にいっぱい飾られている浮世絵の類、「錦絵」などを販売しています。でも、当時の書店は単なる書店だけの存在ではありません。

 

以前ここに書いたこともある、写楽を見出した男、蔦屋重三郎や、そしてこの店の泉屋市兵衛などの版元は、印刷物の企画、絵師を使っての制作、彫師による版づくり、摺師による印刷、そしてそれらの店頭販売にいたるまで、「本」づくりの全てを取り仕切っていたんです。

 

当然その中で、それぞれの役目の人間達とのコミュニケーション上の問題も多々あったでしょう。しかし、まとめ役ははっきりしていた。版元がすべての責任を負って己の信じるものづくりをし、そして販売の現場でその反響を知ることが出来ていた。

 

そう、今日の私には、そういう江戸時代の書籍制作のあり方のほうが、何というか、健康的な「ものづくり」であるように感じられた、というわけなのでした。

 

現代の方法が悪いというわけではないのですが、でも書き手(描き手)、それを書籍にする出版社、それを販売する店舗、その相互の関係が「顔が見えない」方向へ進んでいるのかも、と思ったんですね。

 

顔が見えず、ましてや責任の所在も明らかでないような人間関係で進められる「ものづくり」は、とても不幸なものです。私は建築という完全一品生産の「ものづくり」に携わっていますが、TV番組「ビフォー・アフター」における裁判沙汰など見ると、特にそう思うんです。

 

書籍という「ものづくり」にも、その傾向はきっとあるはず。買い手の私と本屋の店員さんとのコミュニケーションがいつしかなくなったように、本屋と出版社、出版社と作家たちとの関係も、そうなっていく可能性はあるのではないでしょうか。

 

先ごろ、TVを視ない私がドラマをきちんと全話見たという稀有なことがありましたが、それは「重版出来!」という漫画出版界のドラマでした。そこにはまだ顔の見える人間関係が描かれていて、何か少しホッとしたものです。

 

今日Amazonで電子書籍を買って読んだ私にこういうことを言う資格はないのかも、と思いながら書いていますが、でもやはりどんな「ものづくり」でも、そこに人間同志のぶつかり合いがあってこそ、モノに命が宿ると思います。

 

私は本が好きです。本というのは作家の作品でもあり、そして書籍というプロダクトでもある。それを生み出す「ものづくり」が、「なすりつけ合い」のような不健康なものに堕するのはとても悲しいし、本も可哀想ですよね。

 

今日は変な文章ですいません。上に書いたことが、どうぞ私の杞憂でありますように。


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