暮らしの記録から

2016-09-18

『幕末単身赴任 下級武士の食日記』   青木直己 著   NHK生活人新書

 

「本を広げたかたちは、鳥のかたち。」

ご愛読、ありがとうございます。暮らしのプロデューサー、山口です。

 

昨日、19世紀前半の江戸を生きた絵師たちのことを書きました。そこでその時代についてもっと知りたくなり、というところで思い出したのが、自宅に蔵書でもっていた本書です。再読して、やっぱり面白い。

 

本書は、まさに江戸で生きていた一人の人間のナマの記録なんです。主人公は紀州和歌山藩の下級武士、酒井伴四郎(ばんしろう)28歳。彼は万延元年(1860年)に、江戸へやってきました。昨日の記事との関連で言うと、鈴木其一が亡くなって2年後、少し後の時代の話。

 

非常に几帳面な人物であったらしき伴四郎の日記帳から、その生活の実態がかなり詳細にわかるんですね。そのなかの特に「食」にスポットを当てて内容を読み解くという一冊。私のような人間に面白く無いはずがありません(笑)。

 

少し内容をご紹介しますと、伴四郎が江戸勤番を命ぜられ、18日間をかけた江戸への道中のことから始まって、彼自身の紹介と、江戸に着いてからの彼の日々の動きのこと、そして主として自炊であった彼らの料理日記と続きます。

 

さらには、習い事や名所見物など、江戸の生活の中での下級武士の楽しみを日記から拾い上げ、そして江戸の四季の中での食に関する決まり事、節目の食べものについても。まさに、その時代を生きた人間の眼で江戸の暮らしが描かれていると言えるでしょう。

 

あとがきで著者はこんな意味のことを言っています。一個人の日記だから非常に主観的な文章になる。しかしこの酒井伴四郎の日記は、それそのものが非常に面白い。彼の文才というか、身の回りの世界の描写がとても魅力的なのだ、と。

 

ここは、ちょっと掟破りですが、日記の文章をふたつほど引用しましょう。全編こういった日記文とその解釈を書き、そしてその意味合いや時代背景にも触れる、という体裁になっているんです。

 

「夕方民助来り芋を振まい候、是は八ツ時頃余り淋しさに蒸候て喰余りにて候」

夕方に来た同僚の民助を、午後二時頃あまりの空腹に耐えかねて蒸かして食べた芋の残りでもてなしている。伴四郎のおやつは薩摩芋だったんですね。この三日前に一貫(3.75kg)のお芋を買ったようです。

 

「昼拾文の蛤買これあり候あいだ、それにて酒壱盃呑候ところ、蛤も不塩梅、酒も呑ずに大いに貧ほふ」

昼食用に買っておいた安い蛤でちょっと一杯、と思い立った伴四郎でしたが、肝心の蛤の塩梅が悪い、要するに不味いので、結局酒も飲めなかった。その寂しい状況が「大いに貧乏」なのですね。

 

こんな風に、几帳面でありつつその堅物なりのユーモアももっている酒井伴四郎の個性が、この日記をとても魅力的にしているようです。しかも描かれている内容は衣食住の全てに及び、資料としての価値も高いはず。

 

ちなみに、伴四郎の職業は「衣紋方(えもんかた)」です。これは、故実に従った装束の着用指導をする役職。要するに衣類に関する武家社会、公家社会の決まり事に通じ、家中のサポートをする仕事でしょう。

 

当時そんな職業があった、というだけでも現代人である我々には驚きですよね。まさに江戸時代の大名家という、いわば大きな会社のような組織のことについても、伝わってくるものが多々あるんです。

 

このように、単なる「食日記」を超えて、幕末期に生きた人間の眼を通して、その世界がまさに活き活きと視えてくる。折々に挟まれたその時代の風俗画も併せて楽しめました。

 

この書評ブログで、江戸の絵師たちを知るサブテキストとしての時代小説を採り上げたりもしましたが、こういうまさに直球の、生きた人間の暮らしの記録を扱った本は、さらに説得力があって素晴らしい。私と同じく江戸にご興味おありの方には、強くお薦めしたい一冊です。

 

 

※なお、本書には今年、増補版が出ています。ちくま文庫にて、ご参照のほどを。


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