寄りあう馴染み

〈建築とお庭、ボーダーレスなあり方を良しとする日本の伝統からまた学びました。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

今日は休み明け、2組のお客さまとお会いしたりの一日でした。しかし瞼の裏には昨日の緑が焼き付いていて、ちょっと息抜きした時など、その音や香りまでもが一気に蘇ってくるようで、まだ余韻が抜けません。

 

なのでもう一回、八瀬・瑠璃光院で思ったことを書いてみましょう。それは「自然と人工」ということ。和風建築と同じく和のお庭をじっくり体感させていただきながら、そのことを考えていたんです。

 

冒頭の写真は、二階から玄関側のお庭を見たところ。そこに下屋(平屋部分)の屋根が一緒に見える。この、ごく自然な一体感、馴染みようはどうでしょう。何の違和感もなく、一幅の絵のように見えますね。

 

おそらくそれは、屋根が瓦で、かつそれが時を経てきていることと無関係ではないでしょう。土から出来た焼き物である瓦の味わいが、年月を経てさらに樹木の持ち味と近い風合いになってきているようです。

 

考えてみれば、この建物はもちろん、お庭も全くの自然のままではなく、「作庭」という名の人工物ですよね。でも人工物とは言っても、使われているのは樹木や石、水といった自然の中にあるものたち。

 

こうした作庭術を駆使したお庭は、言ってみれば、大自然から少し人間の側に寄った自然、というような感じでしょうか。あるいは計算され尽くした無為としての自然、という言い方も出来るように思います。

 

そしてそこに建っているいわゆる書院造に近い建築物は、非常に洗練された美意識と技術を用いてつくられていますが、使われる素材は一部に金属を用いるものの、木、石、土、草とそれらの加工物が大半です。

 

それらを現代の私たちは「自然素材」という言葉で呼びますが、そんな言葉はほんの最近のもの。近世まで素材には自然素材しかなく、建築はそれらを用いた「少し自然の側に寄った人工物」しかなかった。

 

すいません、要するに何が言いたいかというと、「少し人間の側に寄った自然」と「少し自然の側に寄った人工物」だからこそ、そこにボーダーレスな一体感があるのではないか、ということなんです。

 

これが「大自然そのもの」と「人工物そのもの(例えば石油加工素材など)」の組合せだとすると、これは合いません。お互いに歩み寄るものが無いからですね。そういう建築物は自然と対峙するモノとなる。

 

対して「自然素材」を使った建築は、時の流れをその身に刻んでいきます。まさに冒頭の写真のように、そこにまた人間の側に少し寄った自然との連続感がひときわ強化される要因があるのではないでしょうか。

 

木の家のつくり手とは、そんな自然の側に少し寄った建築物で、自然界との馴染みをよくしたいと願う人たちだと思います。逆に言えばそれだけそうした「馴染み」の思想が日本建築から消え失せている。

 

今や全くの大自然というものは、人間が暮らす地域にはあまり見られなくなってきています。しかし、言ってみれば「中自然」「少自然」はまだまだあるし、つくり出すことも出来るものなのでしょう。

 

そこに違和感なく溶け込み、連続感・一体感のある景観をつくり出す建築物とはどういうものか。自分の志事の根本にある大切なことを素晴らしいお手本から学ぶ、昨日はそんな時間でもあったのでした。


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