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法と城郭

〈名古屋城の再建のニュースに、その歴史をふまえて色々と思うところがありました。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

今日はお城のお話です。今日見たニュースに、名古屋城の木造再建のことが載っていました。河村市長さんが強く主張しておられた計画ですね。それがいよいよ本格始動する、という記事だったんです。

 

私も木造建築にたずさわるものとして、この木造再建の話はもちろん知っていました。でも「再建」となったそもそもの経緯や技術的な詳しい話はよくわかっていなかったので、その記事をじっくり読みました。

 

さて、皆さんも日本全国にたくさんの城郭建築があることをよくご存知だと思いますが、いわゆる「天守」をもつ城で、その創建当時の姿をそのまま残しているものは一体いくつくらいあると思われますか?

 

答えは12です。どこまでを「天守」と見るかは色々な説もあるので一概には言えませんが、天守をもつ城はおおよそ60ほどあるそうなので、となると現存する創建時の天守は1/5だけ、ということになりますね。

 

現存天守の中で、私たち関西人に馴染みのあるのは、何と言っても姫路城でしょう。あとは彦根城。どちらも国宝になっています。ちなみに国宝指定を受けている城郭はあとふたつ、松本城と犬山城です。

 

では残りの4/5は何か。そこにまた色んな名称があり、「復元天守」と「復興天守」のふたつに分かれます。復元天守は元々あったものを復元したもの、復興天守は資料不足などで再建に「推定」が混じるもの。

 

大阪城は「復興天守」で、鉄筋コンクリート造です。復元ではない建物ですが、復興天守の中でも一番古いもので、昭和6年の竣工。なお、今から20年ほど前に「平成の大改修」の工事がおこなわれました。

 

そして今回話題の名古屋城は「復元天守」のなかの「外観復元天守」。これも鉄筋コンクリート造で、昭和34年竣工です。その老朽化、経年劣化への抜本的な対策として今回の木造再建案が出てきたというわけ。

 

では、昭和34年時点で復元が出来た、即ち元の資料があったのに、なぜ名古屋城は鉄筋コンクリート造でつくられたのか?実はそれは、当時の建築基準法が木造再建を認めなかったから。びっくりですね。

 

その時代を経て、平成に入りようやく「木造再建」への道が開かれてきた。建築基準法適用除外、消防法特例などの特別措置が講じられるようになり、平成6年の掛川城から「木造復元天守」が実現しています。

 

今回はこういう流れをふまえ、かつ復元が可能である名古屋城の「木造再建」なのですね。しかし、私は記事を読んで率直にこう感じました。「なんで2度目の再建になるようなことを最初からやるのか」と。

 

ほんの半世紀でまた再建しないといけない、そんな城があってよいものでしょうか。資源の無駄遣いも甚だしい。建築基準法など無い時代からある城郭を再建するのに、基準法に無理やりはめ込んでどうする。

 

なんというか、こういう変に真面目なところというか、「皆一律に」という考え方というか、それは日本人の悪い癖ですね。平成の世になってようやく「法で縛れないもの」の大切さに気づいたとは。

 

まあ私が文句を言っても仕方ないのですが、やはりその根っこには「ロングライフ」への無関心があると感じます。城郭を再建するのなら、そこから未来永劫もたせるくらいの意気込みでつくるべきですよね。

 

今回の再建費は450億円以上と言います。すごい額ですし、今度こそこれを無駄にしてはいけません。建築技術の進歩も著しい現代の城郭、永く永く生き続けるものとして建築されることを大いに望むものです。

図上の往来

〈図面を描くのに、あちらこちらと目移りしながら描くのが検討になるんです。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

昨日は写真撮影、今日はご来客と外出での打合せ。でもそれ以外はずっと黙々と図面を描いています。この「図面を描く」という自分の行為も客観的に観察するとなかなか面白いので、少しそのことをば。

 

私は「基本設計」、言い換えると「お客さまと間取りを決めるまでの段階」の検討と図面づくりを担当しています。そのフェーズで描く図面は普通は3種類ありまして、それは平面図、立面図、断面図です。

 

ものづくりの設計図としてはどれも必須ですね。平面図は上から見た、まさに「間取り」、立面図は家の「姿」の図面、そして断面図はその名の通り、ケーキを切るように建物を切ってその断面を描いたもの。

 

この前段階でつくっている「間取りのイメージ」という手描きのラフスケッチのようなものから、次にこの3つの図面へと移行するわけですが、では、実際の製図ではどういう順番で描かれていくでしょうか?

 

実は私も、他の人の作図風景をまじまじと観察したことはありませんので、皆がそうとは思えませんが、私の場合ですと、ひとつひとつを順に描くのではなく、3種類を同時並行で描いていきますね。

 

それは何故かというと、3種類の図面がそれぞれお互いをチェックする関係にあるから。前段階ではラフスケッチという平面図だけだったものが、「立体」を表すための図面に変わる時の重要なポイントです。

 

まず、ラフスケッチのCAD化として、平面図が先行します。でもこれを描ききってしまうまえに、建物の外形と窓の位置や大きさをチェックする必要がある。なので、それを姿で描く立面図が必要になってきます。

 

平面図上ではこの窓の位置でいいと思っても、それを姿図にするとバランスが悪いということは、ずっとこの志事をしていてもやはり起こり得ること。そのバランスを見ながら平面と立面を摺り合わせていく。

 

それをしながら、断面図にも手を付けます。こちらは主に建物の高さ関係と、屋根の形状をチェックするため。ラフスケッチ段階でも当然イメージしていますが、そのイメージの妥当性を確認していきます。

 

断面図でもうひとつチェックは、敷地がもつ各種斜線制限です。その制限の範囲内におさまっているかを確かめながら描く。これも同様にスケッチ段階でも想定していますが、CAD上の数値で押えなおすんですね。

 

そして例えば屋根の勾配や向き、高さなどが決まってくると、今度はまたそのかたちを立面図の姿に反映して、チェックします。この形状で全体の姿は整っているか。見た目がおかしいことはないか。

 

また、断面図を描くことで間取りがおかしいことに気付くこともままあります。具体的には表現しにくいのですが、柱と梁を組合せてつくる構造上のあり方が、断面と平面でうまく整合しないことがある。

 

そうした時には、断面図を描くことで鮮明になってきたその不整合の理由を平面形状の変更でうまく収められるか、という検討になり、そしてそれは立面の変更にもなり、さらにまた断面図の変更にもなる。

 

このように、図面を描く手は3種類の絵の上をあっちに行ったりこっちに来たりしながら、同時並行で描きつつ検討をおこなっているんですね。もしその手の軌跡が残るとしたら、それは三角形になるでしょう。

 

さらに言うと、その3種類の図面の次に来る平面詳細図、断面詳細図(矩計図)ではもっと詳細に細部を詰めますが、そこで問題になりそうなことがないか、というのも併せて睨みながらの作図になっていますね。

 

一般の方々に比べると、頭のなかに3次元空間をイメージすることについて、私のような設計者はだいぶ慣れていると思います。でも、やっぱり描いて確かめてみるとそこに「ずれ」があったりする。

 

3次元空間を2次元に落としたのが図面ですから、3種の図面の上を描く手が往来するのは、その「ずれ」をなくすため。イメージ上の立体に寸法を与えて具体的なかたちへと導く行為と言えるでしょう。

 

時には描いても「ずれ」が埋まらず往生することもありますが、でも逆にそれが想定外のよいかたちに結実することもある。実はものづくりの愉しさとはそういうところにも潜んでいる、と私は思っているんです。

仕切らない元型

〈開放的な気持ちいい空間の保育園を、HP用に撮影させていただきました。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

最近すっかり「木の保育園」づいている私ですが、今日は計画中、進行中のものではなくて、以前にKJWORKSで設計・施工させていただいた「伊丹・森のほいくえん」の写真撮影に同行しておりました。

 

実はKJWORKSのHPを刷新する計画があり、そこに掲載する「施工事例」の写真を撮ってまわっているのでした。木の家だけでなく、このような施設の事例についてももっと紹介しようという目論見です。

 

住宅と違い、やはり施設の撮影には注意が必要です。園児たちが走り回っているほうが写真としては良いと思いますが、昨今やはりそうはいきませんので、ご無理をお願いして日曜に入らせていただきました。

 

この保育園はビルの1階にあります。私もメンテなどで時々来ているのですが、そのたびに内部のレイアウトなどどこかが変わっています。ゆるい間仕切りとして使われる背の低い棚の配置といったところが。

 

計画の最初に「基本的にワンルームの広い空間でいい」とお聞きしてスタートした空間づくりでしたが、それはこういうことだったんだなあと、その様子を見て思います。空間の広さ、高さが気持ちいいんですね。

 

0歳児のスペースと調理室以外は間仕切りのない空間。トイレもいくつかブースがありますが、小さい子用は部屋の一角にコーナーとしてあり、床材が木でなくて拭き取れるリノリウムになっているのみ。

 

調理室は全体の真ん中にあって大きな窓があり、子どもたちがどこにいても調理師さんがご飯をつくる様子が見えるようになっています。視覚的にはほとんどの場所が見渡せる、そんなワンルーム感覚の空間。

 

公立の「こども園」の建物というのも、私は奥さんが保育士でその職員であるという関係で、少しは知っています。でも、基本的にはもっと区切られていますね。もちろん、規模が違うというのが大きいですが。

 

園庭もなく、間仕切りもない。小規模なこうした保育園だから出来る自然とつながる屋外活動メインのプログラムや、内部の使い方の融通無碍な魅力など、様々な可能性をこの空間づくりから学べたと思います。

 

いま、待機児童問題解消に向けて保育園が増えています。私もまたその動向の中にいるのですが、この「伊丹・森のほいくえん」の空間は、我々の目から鱗を落としてくれた「元型」になったと言えるでしょう。

 

それは木の家づくりで私たちが理想とする空間と相通じる部分があって、当初から理解はしやすかった。でも本当につくってみて、そこに何度も通わせていただいてからの理解は、その意味合いが違います。

 

今日も撮影のお供をしながら、いくつか気づいたこともありました。こうした自分たちの施工実例の使われ方からの学びは、住まいと同様かけがえの無いもの。これを進行中の計画に活かさない手はないですね。

灯り守り

〈暮らしのフェーズの変化は、灯りそのものにも、その扱いにも変化を生むものです。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

今月に入ってから、照明器具についての投稿が多いのです。木の家の住まい手さんからの、器具についての問合せやご依頼がいくつもあり、それに対応すべく色々調べたり探したり、そんな日が続いていて。

 

冒頭の写真のお宅もそのひとつ、2階リビングの木の家。この表しになった勾配天井、空中を飛ぶ梁の構造美が、2階暮らしの「魅せ場」ですね。でも、照明器具については平らな天井よりもセレクトが難しい。

 

ちょっと見難いですが、手前リビング部分は傾斜天井に設置可能なシーリングライト、リビングとダイニングの間には梁の横面にブラケットの蛍光灯器具、そしてダイニングはペンダント(吊下照明)ですね。

 

このお宅は築8年になりますが、先日もここに書いたように、今や照明器具の光源は全てがLEDになろうというご時世。そしてある器具の球切れをきっかけに、器具全般についてご相談をいただいています。

 

これも先日書いた通り、光源がなくなれば器具ごと変えないといけないのか、という疑問はメーカーへの不信感になり、「これから大丈夫なのか」というご不安が首をもたげてくる。それは当然と言えるでしょう。

 

それに加え、お客さまは私よりもだいぶ先輩ということもあって、徐々に「今までよりも明るい照明」が必要になる、という変化も生じてきています。私ですら感じる現象ですから、これまたごくあたり前のこと。

 

さらに、この勾配天井に付いた器具などでは、電球の交換作業にも脚立が必要になるので、それもまた段々と苦になってきます。器具である以上、当然メンテナンスが必要になるけれど、それがしにくくなる。

 

このように照明器具に関しても、暮らしのフェーズが移り変わればまた変化が生じ、何らかその変化に追随していくことが必要になるんですね。しかし、新築当初からそれを全て予測することは不可能です。

 

住み始めた時のご家族に似合う灯りの計画、そして5年後、10年後、20年後。ある程度の想定はしておいて計画はしますが、しかしやはり大切なのは、家族と一緒に育っていく家をきちんと見守っていくこと。

 

アフターメンテではなく「家守り」と呼ぶこの住んでからのおつきあい、照明器具においては普段の球替えなどまでご一緒はしなくても、機器の大きな変化やご家族の変化の際にはお伺いして話し合うべきですね。

 

そうした「灯りの家守り」、私も家づくりに従事して18年という歳月の中で、自分の暮らしの経験をふまえてお客さまの言われることがよくわかるようにもなり、色んな「こうしたらいい」を貯めてきました。

 

しかし昨今のこの灯りの大変革では、もう一度自分の頭をクリアにして、今なすべきことをしっかりと見つめ直してお話をする必要がある。カタログなどを詳細に調べてみて、その想いはさらに強まっています。

 

いまと今後を見据えて、できること、やるべきことをプロとして考え、お気持ちも聞きながら計画へと落とし込んでいく。もう一度暮らしを豊かにする灯りのあり方へ。その重責こそやり甲斐ある「志事」です。

出窓の部屋

〈木の保育園へのリフォームは、ただ四角い部屋をつくるだけではないのです。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

「木の保育園」へのリフォーム工事、現場は着々と進んでおります。今日はまた朝から現場で大工さん、現場管理担当スタッフとの打合せ。リフォームはやはり既存という制約の中での調整が色々ありますから。

 

基本はリフォームであるこの計画に少しだけある増築部分も、いよいよ形になってきていますよ。それが今日の冒頭の写真の場所。ここは何というか、いわば出窓がさらに出っ張ったような感じの部分なんです。

 

でも、写真でおわかりの通り、かたちは四角ではありません。正六角形が、部屋から出っ張っている。床面の高さも部屋の床から90センチほどの高さで、ほんと出っ張り過ぎの出窓、という感じの場所(笑)。

 

出窓のレベルですから、大きさも小ぢんまりとしています。六角形の頂点を結ぶ線は、1.4mくらいしかない。私は中で手を広げることが出来ません。そして勾配天井の高さも、一番低いところは1mちょっと。

 

私が今までつくって来た中で、一番小さい「部屋」かもしれないなあ、と今日も現場で思ったりしていましたが、さて、この出っ張り過ぎの六角形の「出窓の部屋」、何のためにある場所なのでしょうか。

 

実は、というほどのこともないのですが、「何のために」は決まっていません。でも、子育て経験者ならよくご存知かと思いますが、子どもって、狭いところにわざわざ潜り込むのがとても好きですよね。

 

子どもでも2人入ればいっぱい、立つのも難しいこの場所。でも、ご覧のように外へ開かれていて、お庭の緑が美しいのです。一段高い床はもちろん無垢板で、窓以外の壁は全てローラー漆喰、天井も板張り。

 

そこにわざわざ入り込んで本を読んだり、ままごとをしたりする園児たち、それはとても微笑ましい光景ではありませんか。大人には窮屈なこの広さと素材の持ち味が相まって、子どもたちにこそ心地いい空間。

 

お客さまとのそうした「ワクワクする場所」についての話し合いの中から生まれたこの場所、正直言って私自身も図面段階では、どのようなモノになるのかちょっとドキドキでした。狭すぎないかと心配したり。

 

でも、そこは一旦自分の身体感覚を忘れたところから発想すべきと思って、自宅の真ん前にある保育所の子どもたちの姿を観察したりもしましたね。小さい子たちがワクワクするサイズ感ってどこだろうと。

 

しっかりと形になってきたこの「出窓の部屋」、まだ子どもたちに入ってもらったわけではありませんが、私がやっぱり結構狭いと思うということは、きっと良い感じなのでしょう。ワクワク感、ありそうです。

 

一段高い、低い、狭い、天井の低い場所。そうしたものが少しあると、大きな部屋の面白さとそうした小さい部屋の面白さを両方もった空間になります。単調にだだっ広いだけではない「違い」がある場所に。

 

子どもとは、そのような「違い」という差分を吸収して育つのではないかと思います。部屋の中にあるその差をしっかりと体感して成長してもらえる、そんな場所にこの保育園がなっていってほしいですね。

 

今日はそんなことを夢想しながらこの六角形を眺めていたのでしたが、しかし私自身がそこに入り込んでも、子どもたちのワクワク感が実感しにくいのはかなり残念。こういう時、大人とは楽しくないもんだ。

早道・寄り道

〈分厚い本がなくても商品を調べてデータを取得でき、かつ眺めても愉しめるのがWEBカタログです。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

今日はとても良い天気でしたね。でも私は事務所で黙々と図面や資料づくりの日でした。そしてもうひとつ、お客さまからのご依頼で照明器具を探していましたので、その方法について少し書いてみます。

 

ほんの3年ほど前には、照明器具を探すというとメーカーの分厚いカタログを何冊も出してきて、ページをめくりつつそこにある器具の写真とスペックとを見比べながら、セレクトしていたものでした。

 

でも、私の事務所には照明器具のカタログは一冊もありません。今やどのメーカーもWEBカタログを整備してくれていますので、そちらで探します。冒頭の写真はそのカタログ画面のスクリーンショットですね。

 

これはコイズミのカタログ。そのペンダント(吊下照明)の項の最初あたり、器具の一覧が載っているページです。WEBカタログは皆、このように紙のカタログの体裁をそのまま踏襲したものが多いようです。

 

それは何故か。従来の方法からの変化で操作に迷わないように、あるいは紙のカタログ用のデータがそのまま使えるため、などが思い浮かびますが、根本的には「モノの探し方」の違い、ではないでしょうか。

 

普通、WEB上の膨大な情報の中から自分が必要とする者を探し出すのに最も有効で、今や誰でも普通に使っている機能は「キーワード検索」というものでしょう。「続きはWEBで、カチカチッ」というやつです。

 

言語情報を元に何かを探すならこれに勝るものはないと思いますし、その威力は凄い。キーワードの組合せで様々な探し方ができます。昨今は画像のイメージで「似たもの」を検索する機能も出てきていますね。

 

でも、ちょっと考えるとわかりますが、カタログを観るという行為は検索的な情報収集とはだいぶ違います。それは数多あるモノの情報を集中させ、インデックスをチェックして、お目当を順に探すという方法。

 

こういう探し方は、「検索」に対して言うなら「閲覧」になるでしょうか。順に内容を調べながら観ていくこと。即ち、モノを探す場合には、検索だけではそのモノに辿り着きにくいということでしょう。

 

WEBカタログは、そうした閲覧を許すフォーマットでつくられていて、それが紙のカタログと同じ姿である理由でしょう。そしてなおかつ、そこには「検索」と並ぶWEBならではの機能が盛り込まれています。

 

その機能とは「リンク」です。たとえば目次にある項目の言葉からその該当ページに、WEBサイトのように直接ジャンプすることが可能で、これはページ番号を探していく紙のカタログでの作業よりずいぶん早い。

 

かたや、情報を一箇所に集中させて、それを順に閲覧していく方法。かたや、集中させることは考えず、情報の大きな要素である「言葉」において共通点があるものをピックアップしていく方法。

 

そこに優劣はないし、用途に応じて使い分ければよい話です。でもものづくりの現場では、あるつくり手の商品全てをチェックすべき場面がよくあり、それにはカタログの方法論が向くということなのでしょう。

 

カタログという言葉には時に「型録」の文字が当てられることがあって、それを考えた人の知恵に感心しますね。型番を収録するというその機能を言い表しながら、音の当て字にもなっているのですから。

 

検索は有効な場合には最短で目当ての情報に辿り着きますが、言い換えれば少し味気ない。閲覧にはゴールへの道筋以外にも、思わぬ発見の愉しさ、読みものの面白さという要素が共にあるのが魅力でしょう。

 

その、いわば寄り道の魅力と言っていい部分は、今後WEB上にしかカタログがなくなってしまっても変わらず存在していてほしいもの。照明器具を調べていきつつ、そんなことを今日は考えていたのでした。

見えない戦

『真田騒動 ~恩田木工』   池波正太郎 著   新潮文庫

 

「本を広げたかたちは、鳥のかたち。」

ご愛読、ありがとうございます。暮らしのプロデューサー、山口です。

 

昨年のNHK大河ドラマ終了後、真田ロスに悩まされている人が多い、なんて話をどこかで聞きました。私はそもそも観ていませんが、著者が『真田太平記』とは別の真田をどう書くかが気になり入手した一冊です。

 

長編小説かと思っていたのですが、実際には短編小説集でした。幕藩体制下の真田家の話であることは共通ですが、時代も主人公も違う5つの物語。うち『錯乱』は、直木賞受賞作なのだそうですよ。

 

私は大河ドラマ『真田丸』は観ていませんでしたが、昔の『真田太平記』で真田幸村を演じた草刈正雄が今度は父親の真田昌幸を演じたのは知っています。そして主人公の兄・真田信幸が大泉洋であったことも。

 

本書収録の5編に最も多く登場するのは、その真田信幸でした。そして、彼の決断によって真田家が生き残り、それが故に背負うことになった真田の宿命というものも、全編に色濃く反映されています。

 

その宿命とは、父と弟は西軍、兄は東軍、それぞれの信義に従って選んだ道であったはずが、天下が治まった後に「家名を残すための策略」と見られたこと。幕府から目を付けられ監視される藩だったのですね。

 

隙あらば藩の失政を指摘し国替えなどで消耗させようと狙う幕府と、それを智慧で乗り切ろうとする真田の一族。初代藩主・信幸から6代・幸弘まで、各話を通底してその見えない「戦」が横たわっています。

 

本書を読み、そして著者のエッセイなども読むと、著者はあちこちでこの幕藩体制というものの軋みについて書いていますね。現在の国と地方自治体との関係とは全く違う、支配を維持せんがための実情について。

 

『錯乱』もその中央と地方の駆け引きの渦中にいる人間の物語でした。それは今で言う「二重スパイ」という存在。他人を騙すことが日常になった人間、それも自分が操り人形だと知る人間の哀しさが滲む作品。

 

そして本書のタイトルにある「恩田木工」というのは人物の名前です。飢饉による逼迫がもう限界にきた藩の財政を立て直した家老の物語で、これもまた面白いのですが、ここにもやはり江戸幕府の軋みが見える。

 

いわゆる「米本位制経済」の限界が見えてきて、各藩もそして幕府も、財政を維持していくのが困難になってきている。そうした江戸時代の経済事情の変遷も、同じ松代藩を舞台とした各話から読み取れます。

 

あるいは著者がもつ幕藩体制への問題意識が、こうした連作をものにさせたのかもしれません。戦のない太平の世とはほんの表面だけの話で、構成から見れば幕末の動乱へと徐々に悪化しているのだ、と。

 

一皮剥けば権謀術数による中央との戦、そして治世という民との戦が藩を揺るがしている。そうした見えない戦を描いた連作、共通項をもつ短編集ならではの、話をまたいだ気づきをくれる一冊でした。

庭とふれあえば

〈庭仕事はたいへんですが、色々と感じさせてくれることを愉しむ気持ちがポイントかと思いました。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

昨日は志事での外構工事のことを書きましたが、今日の写真はプライベートの外構、というか自宅の庭です。確か昨年も書いた気がしますが、毎年この頃に私を待っている作業、今年もおこないました。

 

本当はGWでやるべきそれは、庭の雑草引きです。今年はちょっと遅れましたが、先週の雨上がりの朝、夫婦で京都に行く前におこないました。引いた草をしばらく乾かし、今朝ゴミに出す時に庭の方をパチリ。

 

あらら、先週きれいに引いたはずなのに、もう次のが伸びてきています。この新緑の候には雑草たちの勢いもすごくて、あっというまに土が見えなくなる。本当に「生命の季節」という感じがしますね。

 

いつも思うことですが、雑草引きはある一面でその数多の生命を奪う行為です。しかし本来庭に植えている樹々を守り、その庭の姿を維持するためには仕方ない。正直、いつもちょっと複雑な気分でやっています。

 

自宅の小さな庭の作業なんてたかがしれていますが、本当にこれをやるべきかという気持ちはどこかにある。でも今年は、その後に瑠璃光院の素晴らしいお庭を見て、ちょっとまた違うことを感じたのでした。

 

美しく苔むした地面、草花や低木類、そして楓を中心とした高木類も、ごく自然な姿でありながら実はすごい手間暇をかけて手入れをされているはず。当日は庭師の方のお姿もちらっとお見かけしましたね。

 

その方は、たくさんある馬酔木を見て回っている様子。そのお姿が、まるで樹木と対話しているように見えたんです。ああ、この職業もまた、好きでのめり込んでやらないと出来ない志事だなあ、と思ったり。

 

きっと庭師さんは、このお庭のあり方から何かを感じ、教えてもらっているんだろうな、とも感じました。世話をする自分と、その結果かたちになっていくお庭の姿との間のやりとりから、心の糧をもらっている。

 

そこで、その朝に雑草を引いた自分を思い返すと、めったにやらないその作業を通じて、私も庭という小さな自然にふれて気づくことが色々あるんです。それは樹々からも、雑草や土、そこに居る虫たちも含めて。

 

もちろん庭師の方と比べることは到底できませんが、素人は素人なりに、庭とのふれあいからは何か得るものがある。なんというかそれは、精神のリハビリのようなものと言ってもいいかもしれませんね。

 

庭の雑草を引くのを心のどこかで面倒と思ってやるが故に、変に疑問に思ったりするのかも。少しの間志事を忘れて小さな自然に親しむ時間をとるよう仕向けてくれている。そう考えればすっと腑に落ちるようで。

 

素敵なお庭を観て歩くのも良いことですが、自分の手が届く小さな自然である庭とふれあえば、観て歩く以上のナマな感覚として楽しめることもまたある。今回は恒例行事の違う面に思い至った気がした私でした。

図面に描けない技

〈家づくりの中で外構工事は、ものの考え方からしてだいぶ違っているのが面白いのです。〉

 

ご愛読、ありがとうございます、木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

今日は午前中、とても気持ちのいい青空でしたね。そんな中、木の家にお住まいのお客さまからのご依頼で、道路に面したお庭での外構工事があり、私も立会をしてまいりました。

 

元は子どもたちが遊べるようにと土のままにしておいた部分を、来客用の駐車場としても使えるようモルタル舗装する、という工事です。住む前に思っていたよりも、駐車場に使うことが多かった、とのこと。

 

冒頭の写真は、一番最初の工程の作業中の様子。駐車スペースに必要とされる強度を得るために、範囲を決めてコンクリートを打ちますが、その範囲で必要な厚みの分まで土を取り除いているところです。

 

周囲には玉砂利洗い出し仕上げの「飛び石」状の部分があり、汚水桝や水道メーターもある。後からの施工の場合、こういう「元々ある」ものとの意匠的な整合がとれるように寸法や仕上げを考えないと。

 

今回はあえて周りとは違うモルタルコテ押さえにしましたが、それは全部が玉砂利だとかえって変な感じになるのと、やはり既存の桝やメーターと上手く擦りつけて馴染ませることがしやすい仕上げだからです。

 

思うに、外構工事と建築工事の大きな違いとは、「水平面のあるなし」ではないでしょうか。建築工事では床が水平であることがあたり前で、傾いていると大問題になりますが、外構工事ではこれが逆になる。

 

「水勾配」と呼ばれる、雨を排水溝へと流していくための非常に緩やかな勾配がついているのが大前提で、水平な面をつくるというのは雨が溜まるよくない工事、ということになる。考えてみると面白いですね。

 

他にも、今回は道路の勾配は少しだけですが、これがもっと傾斜のある坂道だったとします。そこに例えば並列縦置きで2台の駐車場をつくるとすると、道路に擦り付けたところは駐車場にも強い傾きがある。

 

でも、一番奥でも同じように傾いてしまっては、車はずっと傾いて駐車することになりますから、一番奥では水平に近くならないといけません。そして全体的に、道路に向かって雨を流すよう水勾配をとります。

 

言葉で書くとややこしいですね、すいません。でも、結果この駐車場の路盤面は、図面で描くことがほぼ不可能なものになります。それは傾いたラインから水平なラインへと、徐々に捻れていくからです。

 

水平面はなく、かつ色んな場所で歪んだり捻れたりしていきながら、周辺のものと整合性をとりつつ形にしていくということが、外構工事の一番の特性ではないか。それは、直角に慣れた建築屋には逆に面白い。

 

そして、建築屋の方がその特性を掴んでいれば、あえてそうした難易度の高い部分をつくらなくて済むように施工範囲や方法を考えることができます。建築と外構の境目で、そうした工夫はとても大切ですね。

 

今回も、道路面以外は既存部分との間に10センチほど溝を設けて地衣植物を這わせる、という計画にしました。これはよく使われる手法ですが、見た目も、技術的にも、割れなどの危険回避の意味でも有効です。

 

水平と垂直をあつかう建築屋が普段とは違った頭を働かせ、図面に描けない技をイメージしてそこに歩み寄る。外構サイドからも逆の歩み寄りを得ることで相互に刺激があれば、それはとても面白い志事になる。

 

これから形になっていく駐車スペースを眺めつつ、その歩み寄ることの重要性をまた改めて感じた次第です。

間取りのココロ 004〈孔のあけかた〉

〈間取りとは常に、部屋配置と開口部のとり方がセットで考えられるべきです。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

間取りのココロ、久しぶりの投稿です。実は今日、13年前に家づくりについて書いた文章をPC内で発見しまして、その内容が今の考えとほとんど変わらないのが面白く、同様の話をここにも書く気になった次第。

 

その時に私が書いていたのは、大きくは「環境条件に合った建物であるべき」ということでした。そしてそのために、「とりこみたいもの・さえぎりたいもの」を敷地の周辺環境から読み取るべし、とも。

 

では、家の中に「とりこみたいもの・さえぎりたいもの」って何でしょうか?こう書くと抽象的でわかりにくいかもしれませんが、例えば音、光、雨、風といった自然界の因子たち。そして人やモノもそうですね。

 

以前もここに書いたことがありますが、それを上手に制御するという面において私の考えの根本を成しているのが、建築家・原広司が唱えた「有孔体の理論」です。取り込み、遮りを調整するのは「孔」である。

 

建築における「孔」とは、即ち出入口や窓ですね。「窓→間戸→間取り」という言い方をしてもおかしくないほどに、部屋の配置と併せてこうした「孔の開け方」が間取りの成否を決めると言っていいでしょう。

 

ただし、自然界の因子は、豊かな四季のある国・日本では、同じ要素が季節によって全く逆の作用を及ぼすという、非常にやっかいな面があります。また、同じ現象が色んな側面をもっているということもある。

 

例えば光(日照)というものにも、実は3つの側面があります。文字通りの光、すなわち採光という面、それから熱取得という面、そして少し視点は違いますが、眺望(光が入る=ものが見える)という面も。

 

窓という「孔」を開ける時、光がそこからどう入ってくるのか、熱はその時どう影響するのか、さらにその窓の向こうには見たいものがあるのか、ないのか。全部一緒に考えて、さらに風通しも考慮しないと。

 

私が間取りを考える時は、もう無意識に同時進行で検討していますが、あえて細かく書くと上記のようになる、というわけですね。敷地の方位と周辺環境が毎回違う以上、答えは必ず毎回違っていますから。

 

そこで今日の冒頭の写真。左の掃出し窓は東面にあってお庭に面しています。庭の緑を採り込み、かつ東ということで午前中が気持ちいいわけですから、そこにダイニングを配置し、美味しい朝ご飯を演出したい。

 

次に右奥の壁が、南面です。でもこちらにはお庭はなく、道路とそのお向かいの家が近接しています。明かりは採りたいけれど、あまり見たくはない景色。なので、人の目線の高さは全て壁になっていますね。

 

そしてその上は1.5階分くらいの吹抜けになっていて、上のはめ殺し窓で採光を、その下の小さな三連窓で通風を確保する手法。また、はめ殺しの上には軒がぐっと出て、夏の照りへの対処にもなっているんです。

 

この空間では、東に掃出し窓、南に「高窓」として採光と通風の窓、というセレクトが一番「とりこみ・さえぎり」に有効だったということですね。それが奏功してか、とても心地の良い空間に仕上がりました。

 

窓はいっぱい付けて明るく、では壁が少なくて家具を置くのに困りますし、南面には必ず掃出し窓、という考えでは、見たくないものを見ることになったり、夏に往生したりします。南の屋根の天窓などは特に。

 

でも、冬には陽の光、暖かさを採り込みたいし、春や秋には風を入れ、爽やかに暮らせる窓がいい。そして青い空が見える窓がいい。遠くへ抜ける眺望があるなら、それを切り取ってくれる窓がいい。

 

かように家への「孔のあけ方」は、まさに間取りのキモと言っていいし、それこそ実際の建物からのフィードバックを重ねた、その経験がものをいう技術である。私はそんな風に思っております。

暮らして育つ家

〈住まわれている木の家を巡る一日。その変化の仕方こそご家族の暮らしの現れです。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

今日はあちこち動きまわる日でした。合わせて4軒の住まわれている木の家にお伺いする予定が重なり、終日車での移動、移動。お昼ご飯の時間がとれずに車内でパンをかじるなんて、久しぶりのことです。

 

住まわれて半年ほどになるお客さまへ、関わったスタッフの退職のご挨拶にお伺いしたのが2軒。どちらのお宅も、この半年でだいぶ家の中も落ち着いてこられた様子で、そんなお話も合わせてお伺いできました。

 

一軒のお宅には薪ストーブがあるので、この冬、初シーズンのストーブライフのお話も。やはり薪ストーブはまだ街の中では少数派ですし、最初の冬はご近隣への配慮もされながらのご使用になりますから。

 

そしてもう一軒のお宅では、その2階リビングからの山への眺望がちょっと変わっていました。「住んでみながら考えます」と言っておられた家の周りの植栽が、だいぶ実際のかたちになっていたんです。

 

この家の最大の見どころと言えるこの角の大きな窓。その端っこ、隣家の見える辺りを隠すように、アオダモの美しい葉が茂っています。2階から見えるよう、背の高い樹を植木屋さんが選んでくれたとのこと。

 

このように、住まわれてからの新しいご経験や、暮らしながら少しずつ変化していくことなどを見聞きするのは、つくり手としてとても楽しいし、またその「住まい手さんの視点」の学びにもなるものです。

 

そしてあとの2軒は、住まわれている木の家で工事がおこなわれているところ。ひとつは「木の保育園」へのリフォーム工事の現場打合せ、もうひとつは先日も書いた防音対策を施している木の家の進捗確認。

 

こちらもまた、先の2軒とはニュアンスが違いますが、もっと先輩の木の家が例えば「保育園」という第二の人生を歩んだり、あるいは暮らしぶりの変化に合わせてバージョンアップしたり、そういう変化です。

 

こういう場面を巡っていくと、ああ、やっぱり人と一緒に木の家も育っていくんだ、ということを本当に実感します。人の暮らしが営まれている間、それと並行して進む家の「成長」もまた止むことがない、と。

 

住んで当初、暮らしてみてわかったことからのフィードバックが始まり、その摺合せを通じて家もまた「一皮むける」のでしょう。そして年月が経つと、今度は住まい手の年齢や数の変化が家にも変化を呼ぶ。

 

こうした、それぞれの住まい手、それぞれのフェーズがもたらす家というものの変化を一言で表現するとするなら、やはりそれは「家が育つ」という言葉がもっともしっくりくるのではないでしょうか。

 

つくり手である私は、さまざまな木の家を建ててきましたし、本当にたくさんのご家族とおつきあいがあります。まさに家族の数だけ暮らしはあり、その木の家を成長させる要素も各々に違うのだと感じますね。

 

そして今日も、4つの木の家がそれぞれに家族の暮らし、生き方に合わせて成長していく姿を見ることができました。写真のアオダモが窓からの眺望をさらに引き締める様子にも、思わず口元が緩む私でした。

傍らの泉

〈事務所の近くの、でも本当にご無沙汰してしまっていた素敵なところを廻ってきました。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

今日は個人的に嬉しい時間、かつ後で反省しきりとなる時間を過ごしましたので、そのことを。話のエリアは芦屋市内、懇意にしていただいているご近所さんのこと、皆さんへのお店のご紹介を兼ねて。

 

今日はめずらしく、行くべき所用も急ぐ作業もない感じの日でした。なので、「木の空間」がセミナー活用されている間の時間を使って、しばらく出来ておらず気になっていたことをやることにしました。

 

まずは朝から散髪を。このところ気温も上がってきて伸びっぱなし状態が気持ち悪いので、2ヶ月近くぶりにさっぱり。そしてその後は、43号線すぐ南、竹園町にある「おからケーキ 芦屋・善国」さんへ。

 

こちらのおからケーキは、とてもヘルシーかつ美味しいのです。ただ最近ネット販売も始められて、今日はいつもの「おから酒粕ショコラ」がなく、「おから酒粕プレーン」をいただくことにしました。

 

おからケーキが楽しみなのはもちろんですが、私がもっと楽しみにしているのはこちらの店主さんとの会話。とても感覚の鋭いお方で、合うたび私に色んな啓示を与えてくれる先生のような女性です。

 

今日も、まずご無沙汰をお詫びしてから「木の保育園」をつくっている現状をお話しますと、大いに喜んでくださいました。私の本来やるべき方向に進んでいますね、山口さんの使命である志事に、と。

 

単なる激励でそういう言葉を口にされる方ではないので、詳しくは書けませんが、いただいた言葉がとても身に染みます。何も言わずとも的確な「心の診断」をしてくださって、大いに元気がいただけました。

 

そして次に向かったのは、鳴尾御影線沿い、茶屋之町にある「Jクオリア(J-qualia)」さんです。お昼から納品でお休み、というその直前に滑り込んだかたちで、店主・松下さんご夫妻とお話できました。

 

冒頭の写真はその店内の様子。こちらも五感に訴えてくる素敵な空間です。中央に2つ並ぶ赤と緑の椅子「turu」はこちらのオリジナルで、私が「木の空間」に次に導入するのはこれと決めているものなんですよ。

 

こちらでも「木の保育園」づくりの報告をしますと、松下さんも児童福祉施設にご縁があるそうで、私が関わっている助成金事業のこともよくご存知。少し驚きつつ、また相談させてもらえると嬉しくなりました。

 

他にも同世代の人として、親世代との関係のことも共感をもってお話できます。そして子ども以外にもそうした老人向けの施設が木の建物で、木の家具に触れられる空間でありたい、といった想いも共有できて。

 

正直、木の保育園という私にとって悲願であっても経験は乏しいもの、それを日々模索しながら進めていっておりますので、思い悩むことも色々あります。それが今日は、すっと心が晴れる感覚をいただけました。

 

もっと早くに来ればよかったと思いましたが、年明けからずっと、バタバタを理由にしてご無沙汰していたのは己の勝手な都合ですから、猛省すべきことです。すぐ近くに、こんなに豊かな知慧の泉があるのに。

 

ナチュラルなおからケーキ、木の家具や小物たち、そんな志事において私の志事と思想、想いの部分で一致している方々には、折に触れてちゃんと会いにいくべし。ましてやこんなに近くにおられるのだから。

 

そういう後悔と反省と嬉しさが綯い交ぜになったような感覚をもちながら、事務所に戻っておからケーキをいただきました。それは、やっぱりいつもの通りの優しいお味でありました。

寄りあう馴染み

〈建築とお庭、ボーダーレスなあり方を良しとする日本の伝統からまた学びました。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

今日は休み明け、2組のお客さまとお会いしたりの一日でした。しかし瞼の裏には昨日の緑が焼き付いていて、ちょっと息抜きした時など、その音や香りまでもが一気に蘇ってくるようで、まだ余韻が抜けません。

 

なのでもう一回、八瀬・瑠璃光院で思ったことを書いてみましょう。それは「自然と人工」ということ。和風建築と同じく和のお庭をじっくり体感させていただきながら、そのことを考えていたんです。

 

冒頭の写真は、二階から玄関側のお庭を見たところ。そこに下屋(平屋部分)の屋根が一緒に見える。この、ごく自然な一体感、馴染みようはどうでしょう。何の違和感もなく、一幅の絵のように見えますね。

 

おそらくそれは、屋根が瓦で、かつそれが時を経てきていることと無関係ではないでしょう。土から出来た焼き物である瓦の味わいが、年月を経てさらに樹木の持ち味と近い風合いになってきているようです。

 

考えてみれば、この建物はもちろん、お庭も全くの自然のままではなく、「作庭」という名の人工物ですよね。でも人工物とは言っても、使われているのは樹木や石、水といった自然の中にあるものたち。

 

こうした作庭術を駆使したお庭は、言ってみれば、大自然から少し人間の側に寄った自然、というような感じでしょうか。あるいは計算され尽くした無為としての自然、という言い方も出来るように思います。

 

そしてそこに建っているいわゆる書院造に近い建築物は、非常に洗練された美意識と技術を用いてつくられていますが、使われる素材は一部に金属を用いるものの、木、石、土、草とそれらの加工物が大半です。

 

それらを現代の私たちは「自然素材」という言葉で呼びますが、そんな言葉はほんの最近のもの。近世まで素材には自然素材しかなく、建築はそれらを用いた「少し自然の側に寄った人工物」しかなかった。

 

すいません、要するに何が言いたいかというと、「少し人間の側に寄った自然」と「少し自然の側に寄った人工物」だからこそ、そこにボーダーレスな一体感があるのではないか、ということなんです。

 

これが「大自然そのもの」と「人工物そのもの(例えば石油加工素材など)」の組合せだとすると、これは合いません。お互いに歩み寄るものが無いからですね。そういう建築物は自然と対峙するモノとなる。

 

対して「自然素材」を使った建築は、時の流れをその身に刻んでいきます。まさに冒頭の写真のように、そこにまた人間の側に少し寄った自然との連続感がひときわ強化される要因があるのではないでしょうか。

 

木の家のつくり手とは、そんな自然の側に少し寄った建築物で、自然界との馴染みをよくしたいと願う人たちだと思います。逆に言えばそれだけそうした「馴染み」の思想が日本建築から消え失せている。

 

今や全くの大自然というものは、人間が暮らす地域にはあまり見られなくなってきています。しかし、言ってみれば「中自然」「少自然」はまだまだあるし、つくり出すことも出来るものなのでしょう。

 

そこに違和感なく溶け込み、連続感・一体感のある景観をつくり出す建築物とはどういうものか。自分の志事の根本にある大切なことを素晴らしいお手本から学ぶ、昨日はそんな時間でもあったのでした。

五感の景

〈奥さんとふたり、京都へ。新緑の美を堪能できる場所で、浸りきって癒される時間でした。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

今日はお休みをいただき、「今年は京都に行く」と宣言している奥さんを連れて、私の中で「美しい新緑」と言えばここ、だと思う場所を訪れました。お天気は今ひとつでしたが、時折晴れ間も出て何より。

 

訪れたのは京都は八瀬にある「瑠璃光院」です。中村外二・佐野藤右衛門という、私が属する木の家づくりの業界では誰もが知る最高峰の手になる建築とお庭、その織り成す構成の妙は、本当に素晴らしい。

 

正直、今日はそれを賞賛する文章をわざわざ書くことに意味を感じないほどに、あるいは私の拙い文章ではそれを表現できるとは思えないほどに、その美しさに打たれてきました。奥さんも感動した様子。

 

言葉を要しないその美を、冒頭のものをふくめ何枚かの写真でご堪能ください。

 

 

 

 

如何でしょう。自分でもよく撮れたと思う写真たち、やはり被写体が素晴らしいのでしょうね。でも、実は今日私たち夫婦がこの景色と同じくらい感動したものがあります。それは、写真からは伝わらないもの。

 

この美しいお庭の風景には、いくつものこれまた美しい音が重ねられているんです。それは風が鳴らす葉擦れの音、水の流れる音。澄んだ鳥たちの声、そして街中では聞くことのないような響きの、蛙たちの声。

 

写真には人は写っていませんが、私たち夫婦の他にも何人もの方がおられました。でも、皆さん静かにしてらっしゃる。この美しい色と音が紡ぐ風景が、人を黙らせ、人の耳を鋭敏にしている、そんな感じ。

 

カメラのシャッター音すらうるさく感じられるほどに、眼と耳から同時に、かつ別々に入ってくるものが己の中で一体化するそのハーモニーは、もう「妙なる響き」としか言いようがない、精緻なものでした。

 

さらに言うなら、この空間に流れる微かな風、それが運ぶ緑の香り。座っている畳や板間の感覚、思わず触れてみた杉苔の手ざわり。「体験」という名で人が呼んでいるものは、それら全ての統合なのだなあ。

 

言ってみればごくあたり前のそんなことも、それぞれの感覚器官が冴えわたってくると、別格の時間をもたらしてくれます。何も喋らずただその場に居て、その全部に「耳を澄ませて」いたひとときでした。

 

この時期だけの、五感全てが緑のもたらすものに浸るような時間は、かほどに人を癒やすものが他にあるかとすら感じさせてくれますよ。八瀬・瑠璃光院、春の特別公開は、6月15日までです。

交わす言葉

〈独りでご飯を食べる時にも、廻りから挨拶が返ってくるのは嬉しいことです。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

今日は、朝ご飯で娘から指摘されたことを、皆さんにお尋ねしてみたくなって書いています。それは、家族の間での挨拶のこと。きっとご家庭によってその方法は色々なのではないかな、と思ったものですから。

 

冒頭の写真は今朝の私の朝ご飯です。我が家では朝ご飯を食べるのは私が一番早いので、一人で食べます。晩ご飯は家に居る全員で一緒に食べますが、朝ご飯は家族5人とも、食べる時間がばらばらです。

 

家族全員での食事は、一緒に「いただきます」を言うのが普通だと思います。では、自分以外の誰かが食べて自分は食べていない時、他の人の「いただきます」に対して、皆さんのご家庭では何か言いますか?

 

我が家では私が朝ご飯を食べる時「いただきます」というと、必ず奥さんが「はいどうぞ」と言いますね。「ごちそうさま」する時には子どもたちも居て、たいてい末っ子が「ようおあがり」と言ってくれます。

 

この「いただきます→はいどうぞ」、「ごちそうさま→ようおあがり」は、私にはごく普通の食事時の挨拶で、小さい頃から母がずっと言っていたのが、染みついているんですね。そして家族にも伝染(?)した。

 

奥さんと結婚した当初、「ごちそうさま」と言うと「おそまつさまでした」と返ってきました。その改まった感じにちょっと驚いたものですが、これはこれで宮崎のお義母さんから伝わった食事の挨拶でした。

 

私の感覚では、「おそまつさまでした」は食事をつくった人が食べた人に返す言葉かと。対して「ようおあがり」は、調理した人でなくても誰でも言える感じがしますし、実際我が家では皆言っていますね。

 

そしてついに先日、末っ子が「ようおあがり」の後で「こんなん言うのうちだけ?友達の家はそんなん言わへんらしいで」と訊いたんです。なるほど、彼女も己の普通が他の普通ではないと知ったらしい。

 

「お父さんお母さんがずっと言うてるから、皆そうやと思ってた?」と返したら、「友達がそんなん言わへんって言うから、うちは変わってると思った」と。私も他のご事情は知りませんから、そうなのかも。

 

でも、きっと色んなご家庭があるのだとは思いますが、こうして食事の始まり、終わりに交わす言葉が家族のなかにあるのは、それ自体とても豊かなことですね。末っ子の疑問から改めてそう想った次第。

 

なので彼女にも「いただきます、ごちそうさま、にお返しする言葉がある方がいいやんか、きっとつくった人も食べた人もその方が嬉しいで」と言っておきました。まあ末っ子も言うのが嫌なわけではない様子。

 

ちなみにここまで書いて「ようおあがり」をググってみたら、「よろしゅうおあがり・よろしゅうおあがりでした」は関西圏でよく使われているらしい。今までそんなこと調べようなんて思いませんでしたが。

 

となると、長崎出身の母もまた父の習慣に馴染んだのか。我が家は短縮形なのか。では「はいどうぞ」はどうなのか。今までの自分のあたり前がちょっと気になってきましたが、まあ変わることはないでしょう。

 

さて、皆さんのご家庭ではどんな、食べる人とそれ以外の人の間での交わす言葉が使われていますか?きっとどれも、あった方がよい言葉、なにかほっとする言葉なのだろうな、そんなことを想像しています。

維持できぬ部品

〈大いなる過渡期とはいえ、ロングセラーが蔑ろにされている状況には疑問をおぼえます。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。今日はちょっと、業界への苦言をば。

 

今日は朝から、住まわれてからのプチリフォーム工事で、ある木の家にお伺いしていました。工事は大工さんの方で問題なく進めていきましたが、そこで新しくお客さまからお聞きしたことがあったんです。

 

それは、壁付けタイプの照明器具のガラスシェードを誤って割ってしまった、というお話。何かを持って移動していて、それが当たったとのこと。明かりは生きており、「シェードだけ替えられますか」と。

 

早速、新築時にその器具を納品してくれた代理店に連絡をとり、シェードの在庫があるかを尋ねました。幸いまだあったのですが、以前ならこんな確認をとらなくてよかったのに、とつい思ってしまいました。

 

というのは、以前にもこのブログに書いたかもしれませんが、今は急速に照明器具の光源がLEDオンリーになっているから。白熱灯も蛍光灯も、すでに器具メーカーのカタログから姿を消しているんですよ。

 

LEDというのは小さな粒粒の光源ですから、根本的に白熱灯・蛍光灯とは違っています。ということは即ち、それを元につくられる照明器具も今までとは形が違ってくる、ということに他なりません。

 

確かに光源が小さくなって、今までにない薄い、あるいは小さい器具が出てきていて、それは意味のあることだと思います。しかし、今日私がお聞きしたような「器具の一部を取替える」場合は非常に困る。

 

器具が光源の都合で一気に置き換わっていくことは、廃番が一気に増える、ということに等しい。ここを忘れてはいけません。そして廃番品のパーツ在庫は、廃番の数と反比例して数量が減っていきますよね。

 

しかし一方で、照明器具には「シェード」という、直接は光らない、光源を上手に遮って灯りを調整する大事なパーツがある。それらの在庫が底をつけば、照明器具自体を買い換えるしか方法はないんです。

 

そんなことでいいのか、と私は思います。今日私が問合せたブラケットのガラスシェードも、その代理店さんにあと数個という状況でした。あと数個なくなったら、器具を変えてくださいとお客さまに言うのか。

 

思えば白熱灯から蛍光灯への移行の際には、光源の大きさや接続法はあまり変わらなかったので、ロングセラーの器具たちは、その形を変えずに生き残ることができた。でもLEDへの移行は、もっと乱暴ですね。

 

冒頭の写真は、和紙をシェードにした吹抜け用の大きなペンダント(吊下げ照明)です。吹抜けに吊るために、メーカーへの特注で線を長くしています。これも、シェードが破けてしまったら器具ごと替えるの?

 

お上の意向か何か知りませんが、ものづくり企業として恥ずかしくないのかと思います。「永く使い続けられる」ことを前提として生産体制を組むべきでしょう。ファストフードと同じような真似をしてどうする。

 

世に「モデルチェンジ」という現象は多々あるし、チェンジしなければ売れない、という主張も存在するのはわかっているつもりです。しかし「家」に関わるモノまでもがそれとは、何ともやりきれません。

 

昨日の話に続いて、今日も愚痴っぽくなってしまい申し訳ありません。しかし「省エネ」の名のもとに、それ以外の要素が全て無視されているのが今の照明器具事情である、それが伝わっているなら幸いです。

 

「灯り」とはある意味、家の象徴、家庭の象徴として機能していると感じられます。そのシンボルを一気に革新することは、人間が何かを喪失することに繋がるかも。そんな気すらするのは、私だけでしょうか。